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12×12-03
転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術
2006年01月21日 〜 2006年03月26日
@東京都現代美術館

12×12-03_f0015110_1203722.jpg今回の12人
01 新井友香
02 加賀彩恵子
03 勝井恵子
04 鬼島大輔
05 熊谷夏樹
06 鈴木美緒
07 谷真一郎
08 野田智子
09 野田征洋
10 林憲
11 浜口友美
12 松沢



01 新井友香(会社員/24才)

 共産主義から資本主義へと大きく体制を移行したポーランドを中心とする中東欧地域。その国々の現代美術を紹介するべく、今回の展覧会は開かれた。これだけの量の質の良い作品を、しかも美術館で見るのは、本当に久々であった。
 日本では、あまり語られることのなくなったジェンダー問題、年月が過ぎてもどこかに残る戦争の影。現代日本に生きる私にとって、その手法は、一見古くさくも見えた。しかし、彼らが住む土地でそれが何を意味するのか。そのようなことを考えると、全く境遇の違う彼らのことを思う事ができた。それと同時に作品の中には、彼らと私のギャップが全く感じられないものもあった。私たちが、常に思っていた美術業界への問いかけ、本当なら考えなければいけないこと。いかにも現代的な作風で私の前に現れた。それに嫌みを感じないのは、彼らと私の年代が近いからだろう。年代毎にしか理解できないことも必ずあると思う。
 全く別の地で育って過ごしてきた同年代の作家達が、考えることを、意見したいことを、この日本で見て、なんら違和感を覚えなかったのは、中東欧地区で今でも深く根付いている問題が、実は日本にも、散らばっているからかもしれない。恵まれている者達が、恵まれているとされている多くの情報に翻弄され、目に見えないものを見ようとしないこの状況を、私たち一人一人が戒めなければいけないのだろう。

本当に単純なこと。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。何がしたいのか。
何が真実で、正しいのかでという問題ではなく、自分が何を信じているのか。何を信念として生きているのか。話がかなり飛躍するが、それを問い直すきかっけになった展覧会だった。

誰であれ、そういったことを蔑ろにして生きている。


02 加賀彩恵子(学生/21才)

長きにわたり被占領国であり、社会主義をへて資本主義に転換し、現在は経済的にも好調な旧東欧諸国。そういうところから出てくる作品はどういうものなのか。そういったくくりを強く意識して見始めた。が、個々の作品は面白かったけれども、そういう観点からのまとまった印象は特に得られなかった。だからよくわからなかった。

家に帰ってもよくわからなかった。「旧東欧」の歴史を知らないからかなあ、と思って、作家たちの出身国の歴史をざっと勉強してみた。(以下、その内容なので、面倒くさい方は飛ばしてくださってかまいません。)

●ポーランド
スラヴ系民族によるカトリック信仰に篤い国。中世には強国だったがその後はロシアやらドイツやらによるたび重なる占領と分割。ユダヤ人も多くホロコースト犠牲者が多数出た。現在は親米派でイラクに派兵。
出身作家:パヴェヴ・アルトハメル(両親が来日して撮った観光ビデオを出品)
アゾロ(「アート」をからかうような映像作品)
アルトゥール・ジミェフスキ(聾唖の聖歌隊を撮ったドキュメンタリーなど)
ミロスワフ・バウカ(灰が塗られた生家の原寸大模型など)

●チェコ
神聖ローマ帝国に宗教改革を弾圧された結果、無宗教が多くいる西スラヴ人国家。オーストリア、ドイツなどによる支配を受ける。戦後は粛清をふくむ厳しい社会主義と、プラハの春と呼ばれる自由化運動があった。無血革命で民主化。現在は屈指の工業国。
出身作家:クリシュトフ・キンテラ(なんの目的もない奇妙な「電化製品」、しゃべる買い物袋など)
ミーラ・プレスロヴァー(主婦に扮した写真、石に埋もれた写真など)

●スロヴァキア
ハンガリーと縁ぶかい西スラヴ人国家。7世紀以降にハンガリーに取られた領土を、チェコスロヴァキアとして独立した第一次大戦後に奪回。様々な人種がいる農業国。
出身作家:パウリーナ・フィフタ・チエルナ(貧しいロマの姉弟、独学の画家、障害を持つ初老の男性らに寄り添うドキュメンタリー映像)
イロナ・ネーメト(女性性についての作品、実在する通りと同じ長さの道を、現地人のモノローグを聞きながら歩くサウンドインスタレーション)


結局、各国の歴史と作品のおもしろみとの関連性は、よくわからずじまいだった。

いったい、歴史的背景というものは、一人の人間の生き方なり作るものなりに、どのように影響を与えるものなのだろう。具体的な人間の生き方や作品を国単位で集めて、さらに「旧東欧」というくくりで集めて、抽象化したときに、どれだけそのくくりと作家や作品とは結びついているのだろうか。同じ国に住んでいようと、それぞれの人はそれぞれ違った生き方をしている。同じ旧東欧諸国であろうと、それぞれの国は違った歴史と事情を持っている。

とはいえ、人間の生活は環境のなかで成り立つものだし、その環境をそのようにあらしめている歴史の影響も、したがって逃れることはできない。だから、それぞれの作品には、作家たちの生まれ育った環境、それを規定する国の歴史が本質的な影響を与えているはずなのだ。しかしそれはあまりにも具体的で、個別的で、日常的で、「旧東欧」のようなテーマですくおうとしても、逆に見えなくなってしまうのかもしれない。

主催者側もそれを意識していたようで、作家数もそれほど多くなく、それぞれの作家がどの国の出身かということは、作品を見るときには特に意識されないようなつくりになっていた。

具体的なものごとの個別性を大切にする個別的な作家たち、もしくは個別性を超えて現代の潮流をくすぐってみるような作家たち。そして、それらを歴史の文脈のなかに位置づけようとする展覧会側の(すなわち見る人の)体系化への欲求。その綱引きを見たような気がした。


03 勝井恵子

東京都現代美術館で催されている「転換期の作法〜ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」に行ってきました。5年前にイギリスに1年間留学していましたが、その際によく訪れていたTATE MODERNの雰囲気に似ていた様に思います。

今回の展覧会は、中東欧地域の現代美術を紹介することが目的だった様ですが、美術史の知識が正確にインプットされていない身としては、何が中東欧地域の特色なのかがよくわかりませんでした。でも何も考えずに、ただ純粋に面白いと感じました。

特に印象に残ったのは「多機能な女性」という作品です。赤いソファーベッドなのですが、耳を傾けたら女性の声が聞こえてくるので最初驚いてしまいました。ソファーベッドの前に立っているだけでは聞こえず、ソファーベッドに接することでその声を聞くことが出来る仕掛けに思わず感心させられました。この手の作品は、おそらく子どもでも楽しめるものです。

なかなか普通の展覧会だと、子どもが心から楽しめたり理解出来たりすることが難しい気がします。特に美術館などでは、作品に触れることはタブーとされている傾向があるように思え、子どもには少々窮屈なものの様に思います。今回の展覧会には子どもの来館者も比較的多く見られた様に思い、中東欧地域の現代美術が幅広い年齢層に楽しまれるものであることを認識出来たように思います。


04 鬼島大輔(学生?/20代)

薄暗い展示室では天井から吊り下げられた椅子、手錠が出迎える。即座に社会主義時代の拷問を思い浮かべた。空中に奇妙な存在感、払拭できないオーラを放つ。いくつもの穴があいた、片隅のソファーベッドに耳をつけると女性の声。赤い色がなんだか秘密めいた肉体性を感じさせる。「赤」の意味への挑戦でもあったのか。その奥には同じ作家による分娩台みたいな装置に装飾した作品が3つならぶ。女性的肉体性、への執着を感じる。

労働の動作そのものをトレーニングとして取り入れた、画期的なジムが営業中だったので存分に汗を流した。

知的障害者を映される側でなく映す側に設定するというのはありそうだが今までに見たことはなかった。機械を使いこなせないぶん、映像のリアルだけが妙にくっきりと感じる作品だった。

昭和の日本には、こんなおっさんが結構いたんじゃないかな、と「ヨゼフについて」を見て思う。

4人組アゾロの作品からは全体的に西海岸パンクのノリを感じる。なにもかも既に誰かがやっている、と作品アイディアに行き詰って困りながらもどこか余裕のある、人を喰ったような目に。

社会主義体制から逃れるべく他国に移住した人々が、おぼろげに故郷の歌を歌う。象徴的なドキュメンタリーからはキュレーターの親切心を感じた。

作者の生家でもあるアトリエの外観だけを再現して壁に灰を吹き付けた作品。歴史、過去、記憶の残像。

作家の両親が日本を旅してレポートするというビデオ作品。ただの旅行ビデオだった。こんなとこでそれを観ている状況自体が極めてシュール、という捉え方しかできない。その横のスクリーンではアゾロがへらへらと街でちょっと変な、程度のことをしている。意図的なへらへら感が、やはりパンクだと思う。

チェコの作家、プレスロヴァーの写真からもやはり性と肉体への探究心が見てとれる。女性の皮膚感覚、みたいなものってやはり永遠のあこがれになるのかなぁとオス的思考をする。

ドイツ中のゴミを集めてベルリンに山をつくる、という突拍子も無いプレゼンテーション。ゴミを砕いて消波ブロックのような形に加工し、それを積み上げ土を盛って木を植え、公園を作り、サイクリングコースを作る。できた部分から段階的に利用できるようにする…といつのまにか現実的で夢のある計画に。イスタンブールでは提案した地下鉄網が具体化しているらしい。現実にできるプロジェクトの提案がアートなのかどうか。ただこういう計画をいきなり役所に持っていっても一顧だにされないことは予想できる。

2つの人形による「トークマン」は暗い部屋の隅っこでぺちゃぺちゃ喋ってるほうが怪しくていい、と思ったが、それは自分のなかのチェコっぽさ、という先入観からかも知れない。

すべての栄養を補給できるくだもの、人間の皮膚と同化して育つ植物、仮想のバイオテクノロジーだけど、サプリメントやカロリーメイト、ウェアラブルコンピューターなどを連想するに、意外と現実に近い妄想だと気づいた。

聾唖の合唱団は、途中でわからなくなって隣と話しはじめるメンバーがいなくなる程度には練習しないとだめだと思う。どうせなら全員が真剣にやってるほうがおもしろいはずだ。

スロヴァキアのある通りを案内する音声を聞きながら一緒になって館内を歩く。すぐ脇を通ったのだろうトラックの音や「ものすごく社会主義っぽい建物」という形容に、臨場感をかきたてられた。ただ、歩くペースがつかめずに、話の半分も終わってないところでゴールに着いてしまって残念だった。仕方なくきびすを返して戻った。

自転車をこいでいるフリ、というビデオ作品。イスラエルのテルアビブで即興で作ったのだそうだ。景色を眺めるふりをしたりいろいろやるが、途中ですることが無くなって困っていた。内戦・紛争に疲れた人々を楽しませる、というアティチュードと内容のばかばかしさがナイス。この作品を最初にみたイスラエルの人たちは、ほっと笑うことができたのだろうか。

美しい流線型のフォルムに何の機能も無い、というキンテラの「製品」は松本人志がひとりごっつのコントで使ってそうだ。

一番いいギャラリーはどこですか、と不毛な質問をベルリンの街ゆく人に続けてさまよう、アゾロはちょっとマイケル・ムーアみたいだ。なにかが不足してるはずなんだけど、という彼らの感覚には共感できる。

映画の絵コンテみたいなものが並べられた作品があったので、そばにいたスタッフの方に順番はあるのか、と聞くとみんなが見ているのと反対方向、一番奥の絵を指差し、「あっちからです」とのこと。全員気まずそうな顔をしながら移動した。教えてくれたらいいと思うのだが。こういうところで鑑賞者に「わからない」思いをさせるのはマイナスにしかならないだろう。「ストーリーボード」という作品だそうだ。

年齢性別さまざまであろう人の手を花びらのように組み合わせた「花」を見て、ASA-CHANG&巡礼の「花」という曲を思い出した。不ぞろいな表現が組み合わさってきれいな花のように見えればいい。というのはこの作品を展示の最後に持ってきたキュレーター側のメッセージか。エモーショナルでいい。

2つの映像が並べられている。廃屋のような家で暮らす快活なヤルカと、精神に異常をきたしている少年刑務所のダヴィッド、淡々と映されているロマの兄弟のリアルそのもの。今回の展示はジャーナリスティックな作品が多い。もう現代美術じゃなくてもいいんじゃないか、って感じはおもしろいと思う。

下町情緒を感じさせる商店とマイナーなコンビニが立ち並ぶ深川通りを抜けた先に、まるで神殿のような美術館がそびえたっていた。


05 熊谷夏樹

「こちらの展覧会、お一人で行かれることはお勧めできません。」※ネタばれあり
 
こちらの展覧会、複数人で行くことをおすすめ致します。なぜなら、恥ずかしがり屋の私たち日本人には、そこにある『面白装置』を一人で体感しているところを、一緒に笑って見てくれる人が必要だからです。
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その装置の概要は、こちらの図のようになっています。楽しみ方としては、まず、その見た目の重厚さを存分に味わってください。何が起こるともわからない、得体の知れないその外観に、私は心踊らされました。次に、装置から突き出ている一輪車の柄を持ち上げてください。柄を持ったら右手のちょうど親指あたりに、足元のベルトコンベアを動かすスイッチが触れると思います。そのスイッチを一気にONにして下さい。そして、実際の一輪車を使用する時と同じ要領で、そのままベルトコンベアの上を歩くというわけです。一輪車型ルームランナーといったところでしょうか。

この装置、実際に体験してみると、かなり笑えます。なぜなら、この仰々しい外観とは裏腹に、動きが「超」が付くほど単純で退屈なものだったからです。静かで広々とした、美術館独特の雰囲気の中、勇気を出して装置に乗った私。いざスイッチを押して始まったことと言えば、一輪車を押す格好でゆっくりと脚を前後させるだけ。響くのは、ベルトコンベアーの回転する音と、わずかばかりの私の足音だけ。一人では、この恥ずかしさに耐えられず、リンゴちゃんになっていたことでしょう。

がしかし、その装置の動きや、突如として置かれた自分の状況を楽しむだけでは、その装置の内に秘められた意味を理解した気持ちになれませんでしたので、今さらながら、この装置の訴えかけていることを考えてみました。ということで、下記この装置の訴え。
 
装置の訴え:『この空しさを感じてほしい』
私たちのいる東ヨーロッパは、今でも西ヨーロッパとの経済格差が鮮明であり、西への出稼ぎ労働者がたくさんいます。西の企業の工場がたくさん建設されているのもまた事実です。そして、多くの場合、私たちは肉体労働者や工場のライン労働者として働くのです。この一輪車で物を運ぶという行為自体、私たちが置かれている状況をシンボリックに表していると言えるのではないでしょうか。この装置に乗れば、どこに行くこともできず、ただ同じ場所で単純な作業が淡々と続く、この言い知れない空しさや虚無の一端を感じることが出来るでしょう。西ヨーロッパの人たちは、ベルトコンベアの上で、自分たちの肉体に付いてしまった余分な脂肪をそぎ落とす努力をしていると聞きます。でも私たちは、それと同じような運動を、まったく別の目的と心情でやっているのです。あなたがこの装置を使って、少しでもそのことを感じてもらえたら。
 
さて、上記の私の考えた『装置の訴え』は、たぶん制作者の意図したところからかなりズレているかも知れません。私はこの展覧会のパンフレット等を全く読まずにこの文章を書いています故、全て主観です。ただしかし、美術館を訪れた一人の人間がこのように感じたのもまた事実ということで、日本にもそうした虚無感、空しさを歌った歌手がいることを、半ば強引に、この東欧の作者に紹介してあげたくなりました。1960〜70年代に活躍した岡林信康というフォークシンガーです。かなり突然の話題チェンジですみません。私自身の岡林ブームは既に過ぎておりますが、この作者に紹介できたら、たぶん喜ぶのではないだろうか、ということで紹介させていただきます。
 
♪今日の 仕事は つらかった 
 
の歌詞で始まる『山谷ブルース』はとても有名です。
AMAZONのURLも付けておきます。あとは、この東欧の制作者に日本語が通じることを祈るだけですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005GLFI/qid=1143024823/sr=8-3/ref=sr_8_xs_ap_i3_xgl15/503-0706746-3076730

さて、かなり脱線いたしましたが、ともかく私が訴えたいのは、「この面白装置を体感しよう!一人でやるのが恥ずかしかったら、誰かと行こう!」ということです。遊園地にあるアトラクションより、もちろん地味。でも、静かな美術館でこの面白装置の意味あいを考えることが出来れば、それはそれで、充実した週末だったと言えるのではないでしょうか。ちなみに、美術館の学芸員の方は、全く笑わず見ているだけですので、あてにしないで下さい。


06 鈴木美緒(PR/20代)

2006年現在、かつてあれほど資本主義国に生きる若者達が理想化し熱烈に支持をした、共産主義国家は外部との接触を遮断し独裁主義体制をつらぬく少数国をのぞいて消滅してしまった。それを競争原理に生き延びることを本能的に選んだ人間の性であり、理想だけでは社会の一部の人間の豊かな生活さえも維持できない社会を確立していく上での淘汰の過程であると結論づけるのは容易ではあるが、現実に昨今までその淘汰の渦中に運命をゆだねる他の選択肢しか持たなかった人々が多数生きていることを忘れてはならない。

「転換期の作法」は、その政治、社会そして文化的な転換期を若くして経験した東欧の現代美術家にとってそれはどのような痕跡を彼らの制作に残したのか、またいかにその経験は認知されなかったのかを垣間見ることの出来る展覧会であった。

2フロア約60作品にもおよぶこの展覧会に出展した作家たちの作法は映像、インスタレーション、写真、擬似デザイン商品プロジェクトなど多岐に亘る。その主題も個人的な日常から社会的なメッセージや風刺をこめたものなど様々だ。その中でも特に印象深かったのは自尊心やプライドという殻を取り払った状況にある自分を守ろうとしない(デイフェンスレスな)人々を主題にした作品だ。

2005年ビエンナーレの出展作家でもあるポーランド出身のアルトール・ジミェフスキ(1966~)の映像作品の一つ「我らの歌集」(2003)は彼がイスラエルのテル・アディヴを訪れた際に、ポーランドから亡命したユダヤ系のポーランド人たちに遠い昔の記憶に残る祖国の歌や思い出を歌い語ることを依頼しその様子を記録したものだ。亡命者の多くは高齢で病院や施設のベッドに横たわり途切れ途切れの記憶をたどりどうにか自分とかつての祖国とをつないでいた言葉を必死で伝えようとする。ある者は雄弁に語るが、その試みの多くは途中で途切れたり、疲れて終わったりする。

死期が近づいた老齢の日系アメリカ移民が突然最後の力を振り絞って故郷である日本に帰ろうとする話を読んだことがある。彼がたとえ祖国である日本に辿りついても彼らの残した家族や記憶の場所はも存在しないと理解していてもである。この映像に出てくる老人たちもまた望郷の強い思いを心の奥底に隠蔽しつつ異国での日々を送ってベッドに辿りついたのではないかというかという思いを裏付けるように彼らは必死で記憶をたどる。その脳裏に浮かぶのは幼い日に家族や友人たちにかこまれ何気なく口ずさんでいた歌でありその光景であろうか。彼らの年月で濁った瞳に光がさす。その光景が日常であった当時、この作品に出てくる誰一人として50年後イスラエルの病院のベッドに横たわり突然現れた祖国の若者の携えるビデオに向かってその歌を歌うとは予想できなかっただろう。生きるという選択肢の為にかつて離れた祖国が門扉を開いてもなお異国の地に生き続けざるを得なかった彼らのやるせない思いは、現代美術作品という形で表現されたからこそダイレクトに極東の果てにある日本の鑑賞者の共感をさそう力がある。

ジミェフスキのもう一つの出展作品「歌のレッスン」(2001)は聾唖者の若者たちが教会にあつまり聖歌を習い歌うプロジェクトの様子を記録した映像作品である。この作品では「我らの歌集」(2003)の歌う老人たちとは対照的な生の真っ只中にいる若者たちがおそろいの黒い聖歌服にすっぽりと覆い隠された身体からエネルギーを放出しながら自分自身や互いには聞くことの出来ない歌声をふりしぼり精一杯歌っている。いうまでもなく、彼らの発音は不明瞭でばらばらの音階やリズムは不協和音のように聴覚健常者には聞こえ、その姿は批判的に見れば滑稽でもある。しかし、その歌声の力強さは和音にではなく彼らの心にある希望にある。歌の練習の合間に彼らが見せる素顔や隣人同士のやり取りは明るく、一昨年私がポーランドのワルシャワとクラクフに滞在した際に出会ったポーランドの若者たちの笑顔に重なった。

それは、この作品中にてソロで歌を歌う若い女性の姿が、私が一昨年ワルシャワに滞在中にお世話になった家族の大学生の娘さんに似ていたからであろうか。彼女はお気に入りだというジェニファー・ロペスの歌を風呂場で化粧をしながらよく口ずさんでいた。そのせいか、真面目な顔で聖歌を歌う作品中に出てくる女性が聖歌服を脱ぎ捨て、ジーンズに包まれた腰を軽快にゆらしワルシャワの大通りを颯爽と闊歩する姿が眼に浮かんだ。しかし、カトリックの影響が色濃く残るポーランドにて聾唖の若者たちに西の歌ではなく教会で自国語の聖歌を歌わせているというところにこの作品の主題の鍵はある。社会的状況の激変の後に生まれ新しいポーランドを形成していく中でおそらく健常者とは異なる環境、条件下の中で生きる若者たちの中に選択肢の一つとして信仰という伝統が継承されていることがこの作品には記録されている。

また、ジェミスキが亡命地で生を終えようとする老人の姿や新しい目標を持って生きることが出来る現代ポーランドの若者たちの姿へと着眼した背景には、歴史的に常に殉教者のような虐げられた歴史上の役割を背負わされてきた彼の祖国でさらなる負の重荷を背負って生きる人々に対する深い洞察力と畏敬の念が見られる。そして、ジェミスキ自身これらの人々の行為や記憶を映像作品という形で表現することにより自己の体験してきた社会の変容のあり方をより多層的に認識することが可能になったであろう。





07 谷真一郎(会社員/営業/25才)

美術館へ行く。ようやく訪れた休日。日曜の昼下がり。晴れ。こんな時に、前夜に飲んだ酒が抜け切れていないせいで体が重い。

木場公園を歩きながら春の風に当たり、それを意識的に飲み込むと、スッと胃のむかつきはだいぶ軽くなった。しかし同時に、久しぶりの美術館へこんな体調で来たことが、なんだか美術館や作品、他の来館者への冒涜(!)みたいに思えてちょっとバツが悪くもあった。ともあれ、東京都現代美術館が、駅から少し離れていて、春の公園を通って辿り着くロケーションにあってくれたことに感謝する

美術館へ行くこと。ぼくはそれが嫌いじゃない。好きなんだろうと思う。その理由は、専ら静かな場所であることやデートの行き先として使用できることということを除けば、アートへの憧憬と懐疑だろう。

ぼくにとってアートはなんだかかっこいいものだ。サービス残業ばかり(今もそうだ)のサラリーマンにとっては、遠くの世界の出来事であり、美しい商売である。できればそれに関わって生計を立ててみたいもんだなと考えたりもする。アートは、またそれと同時に、なんだか疑わしいものでもある。作品の価値とは。芸術家とは。社会との関係は。美術館で出会った作品に率直に感銘を受けていても、その裏側、そういうところに疑問の目はある。

今回の「転換期の作法;ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」展の冒頭、挨拶文には「資本主義的ジャングル」の中で生き延びるための様々な戦略を、東欧の作家たちが必要としていると書かれている。アイデアを投げ返されてような展示だった。作家側からの問題提起も見事にはまった企画で、明瞭さが心地よい。

ただ、映像作品が多かったせいか、展示の終盤、手持ちカメラの微妙に揺れる映像が頭を回し始め、昨夜からの酒も手伝って、酔ってしまい、再び気分が悪くなってしまった。そんなわけで、最後は足早に美術館を後にした。風は強く冷たくなってしまっていた。


08 野田智子



09 野田征洋(中間管理職/43才)

前日に彼女と別れる別れないの大喧嘩。当日もすったもんだで結局3時に出発。しかし、40もとうに越えている私は、いまだ恋愛で悩んでいるということに、いかがなものかと思う時がある。つい最近、病気を煩ったことのある上司に、「おまえ人生順調じゃないか。大きな問題にぶつかった事ないだろう」と言われた。失礼な!と思ったのだが、実際周りの同年代は、子供が不登校になっただの、事故にあった、病気になっただの。(死んでしまう人もいるし)。恋愛問題どころか、どうしようもない壁にぶつかり、自分しかいないのでしょうがなく壁をえっちらおっちら登っている人達が意外にいる。

さて、渋滞に巻き込まれ現代美術館についたのは4時過ぎ、閉館が6時だから、まあいいでしょと思い、入場。だいたい土曜日のこんな時間に一人で美術館に行くなんていうのも独りものだからできるってもんでしょ。しかし、映像展示が多く、全部観ると軽く3時間は越える計算なので、じっくり観たい方は余裕をもって行ってください。

展示は、まさに現代美術のオンパレード。内容は解説にあるように社会主義から資本主義への転換期を感じさせる作品が目立った。まさに「転換期の作法」。作法?作法って何だ?作法というからには、決まり事(ルール)ということ?なぜ作法なのか?

展覧会の作品は、とても完成度の高いものばかりであるのだが「どこかで観たなにか」を感じるのだ。そう、もう新しい手法などなく、どこかでみたなにかを焼き直すしかないということなのだろう。その事こそ作法と言うことか。

そのことを最も象徴していた作品がアゾロという4人グループの「全てやられてしまった」というビデオ作品だ。本人達が作品の新しいアイデアがないかを話している様子をとっているだけなのだが、だれかがアイデアが浮かぶとそれは観たことあるということの繰り返しの、なんとものんきな作品だ。

ビデオと言えば、同美術館で、先日なくなったナムジュン・パイクの特別展をやっていた。ナムジュン・パイクはまさに私が映像の世界に入ろうと思ったきっかけをつくってくれたアーティストだ。忘れもしない1984年草月ホールで行われたヨゼフ・ボイスとナムジュン・パイクのハプニングを観て、私はやられてしまった。その年は、パイク初の衛星生中継アート作品「グッドモーニング・ミスターオーウェル」にはじまり、今はなき西武美術館でボイス展、都美術館でパイク展、ローリー・アンダーソン来日と、当時学生だった私にとっては最も心に残る劇的な年だったのだ。

が、しかしボイスもパイクも60年代フルクサスの人達だ。60年代当時オンタイムの人達は84年ハプニングで私と同じ感動をおぼえたのだろうか? もしかして、同じことやってんなぁ〜って思った人がいたんじゃないだろうか?

今回の展覧会で考えた事はそのことなのだ。私は「なんか観たことあんなあ」と思っても、世代が変わるとスゲェーと思うことがあるんじゃないかと。きっとポーランド、チェコ、スロウ゛ァキア、ハンガリーの人達にとっても今の時代だからこそ、キャッチーな表現なんじゃないのだろうか。

結局、現代美術って特定のある時代や世代に伝えるために、いろんな作法を繰り返しているということなんだろう。歳を重ねるとボイスやパイクのハプニングより、病気、事故、あげくの果てに子供に刺されただのといった、もっととんでもないハプニングに出くわすことがあります。(まあ私は経験してないけど)。そういう人達にとってのアートって何でしょうね。だいたい歳とると八代亜紀とかもアリになってきちゃうからなぁ。


10 林憲

長ネギが回っていた。
しかも、なんかもぐもぐしゃべってる。

自由なんだなぁ。
創りたいものを創ってみる。

例えば、
「我々はポーランドの有名な芸術団体です。
このギャラリーがこの辺りでは一番素晴らしいと聴いてやってきました。
是非、我々の作品を展示させて下さい。」
と、青年が言う。
「ええと、今、とか今夜、とかじゃなくて、ちゃんと前もって準備して、
発表できる形にして、持ってきて下さい。」
とギャラリーの責任者に言われる。
「では、ポーランドから作品を送りますよ。」
と言いつつ、彼らは立ち去る。
その一部始終をビデオに収める。

これ以上に現実を痛烈に皮肉った作品は、無い。

芸術ってなんだろう。
なんで今すぐ見てもらうのはだめなんだろう。
すごくいいかもしれないのに。
どうしてオーナーは、直感で決められないのだろう。

現実を収めただけ。
しかし、それが一番強烈で滑稽。
いくらきれいごとを言っていても、現実が現実。

自分たちをぶつけてみて、
それを収める。
それが作品になる。

生き様自体が芸術になること。

例えば、
ふと感動を感じた瞬間を
炭と絵の具で切り取る。
そして、言葉を添える。

その、何気ない瞬間。
そして直感の言葉は
受け取る者の心のどこかに共鳴する。
マリンバみたい。
どこでどんな音がなるのやら。

青い絵の具がとても美しかった。
きっと、その瞬間だけの色なのだろう。

例えば、
とっても丈夫に、
「地中の中だけで」育つ植物が夢想されていた。
どんなに寒くても熱くても育つけれど
決して地面の上に顔を出さない。
なんだかとっても意味深長。本末転倒。
だけど、人間はこういう植物になろうとしているのかもしれない。
笑いの後の不安。

発するということは
同時に
自分を開く。
受け取る人も、自分を開き
発する。

電子が物質を励起させながら飛び回るように。
震えて、熱を帯びる。

伝えたい事が伝播していく。

地球は丸いから、ぐるぐる回ればいろんな色が混ざって楽しいはず。

転換期の作法は、衝突、発信、情熱。
転換期にこそ命はメラメラと燃え上がるのかもしれない。
質量保存の法則は、成立しない。


11 浜口友美

転換期の作法〜ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術〜というものに行ってきました。行ってみて、初めてこの4カ国の場所がわかりました。
想像以上におもしろかったです。

一番おもしろかったのは「アゾロ」という男性4人のグループ。
主に、ビデオで自分たちの世界を作ってます。
4人で、芸術について語る。
「劇場を使うっていうのは?」
「それはもうやってるよ。」
など、あれやこれやと案を出すのですが、どれもこれも「やっている」「すでにある」こと。
すごい困っているのだけれども、なんとものんびりとした感じ。
すでにあるものから、新しいものを作る。
今のこれが限界ではない、まだ新しい何かがある。
これは、芸術以外にもなにか訴えるものがあり、ビデオを観ながら小さい頃
「メンデルがおらんかったら、ともみが『メンデルの法則』発見するのに・・・」
と思っていたことを思い出したりして。
「科学技術にしろ、音楽にしろ、新しいものを生み出すっていうのは大変やわぁー」っと小さい頃より現実が分かり、自分には無理なので他人に期待する自分。
「芸術家はなにをしてもいいの?」というアゾロの作品では、木に立ちションをしたり、歩道橋の上から車に唾を吐いたり…。
ちょっと悪いいたずらをするのです。
「これが芸術なら、ともみにも出きるなぁー」と小さな企みも…。
なにげに小さい頃にやったことっていうのは芸術なのかも…。
結局、自分の気持ち次第で、何でも芸術になるのかなぁーって思います。
他の作品で日本の新幹線に乗ったおじいちゃんが
「これは、シンプルで素敵なデザインだ」と言いました。
「へぇ〜。外人が見たら新幹線の座席のカバーでさえ芸術に見えるのね」と思いました。
たしかに、自分が外国に行った時「なに?このポスト!!かわいい♪」って思うし。
そんな中に日常の芸術、そのアゾロの言う「芸術」っていう真髄があるのかなぁ〜って感じました。
他にも、とっても素晴らしい作品があり、勉強になりました。いろいろな表現方法があるなぁーって。次は、実際にポーランドとかチェコに行きたいです。


12 松沢


by dog06 | 2006-03-03 21:38
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