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【バー】FL(Flying Lady Bar Spirit of Ecstasy)
すれ違いの確率
鈴木美緒

転職してから、エンゲル係数ではなくて収入におけるノンデル係数の異常に高い数値を示す日々を送っている。ストレスと机上の前に座る時間と重ねる杯の数は比例するとの実証だろうか。会社が早くあがったと言っては、飲みにいき、残業でくさくさすると言っては飲みに行き、お金がないからと一杯だけと飲みにいき、雨が降っても傘を借りに飲みに行き、台風が近づいて不穏だからと言っては飲みに行く。

渋谷か西麻布のバー、ひたすらお酒を一人でも数人とでも飲める店で飲むのが好きだ。どの店にも、無口にもよきアドバイスをかけることができるちょっとだけ年上のマスターがいて、どんなに酔っても心の底では家で一人で飲むよりもずっと安心だ。

そんな不毛でいてしぼみかけた夢を寄せ集めたようなある夜に、小憎らしくっておしゃべりでふてぶてしくって、口が悪くって気分屋の私のような人に逢った。

知り合ってから半年ほど、時折思い出したように会ってはポーランド人やロシア人のように明るくなるまで、互いの時間が果てるまでとことんしゃべって飲んでいく不思議な逢瀬が続いた。

会う回数を重ねても飲み友達という名の不思議な関係は神聖に保たれた。たとえ同じベッドに寝ても手をつなぐような純粋でそれでいて共通の深い罪悪感に基づく連帯感が生まれた。

私はというと、飲み仲間としてだけではなく女として深夜から朝までの時間をたるみなく過ごせる相手の男性の部分を垣間みたいという好奇心にかられるようになった。

しかし、それを実行に移すほどの強い意志も勇気もなく、ただただ流れるにまかせて月が替わって、季節が替わっても定期的に二人で会い続けた。

やがて、大勢の仲間や友人と交わって機嫌良く飲んでいても、物理的なタイミングさえ会えば最後は二人でじっくりくだらない事やたわいない出来事を話しながら会うようになった。他の顔見知りや知人たちにもなんとなくわからないようにすっと別々に消えて、場所を変えてさらに飲みに行くのが密かないたずらのような気分を体験させてくれた。

しかし、あの人は決して私を女としてものにしようとはしなかった。

【バー】FL(Flying Lady Bar Spirit of Ecstasy)_f0015110_20514295.jpgそんなあの人と私は梅雨の合間のからりとしたある夜に偶然かするようにすれ違った。渋谷の横町で軽く立ち話をかわして、何事もなかったかのように立ち去る。

あの人が他の店の軒先で立ち話をするのを横目に、私は次の店へとかばんをひっぱる仲間たちをやさしく振りほどいて横町の出口を目指す。

右手をあげるとタクシーがすぐにタクシーが止まった。午前1時少し前。タクシーに乗り込み家路を走らせるが、思った通り家の近くである六本木にさしかかったところであの人からの電話があった。

30分後に西麻布のFLというバーで会う約束をした。そして、案の定私が白ワインを飲みつつ2時間ほど待って、しびれをきらしてもう帰るよ、と連絡したころ何事もなかったかのように彼は到着した。

私たちの他に客はいなかったが、マスターがべろんべろんに酔ったCカップのアイドルもどきがもうすぐ来るとの連絡があったと教えてくれた。

果たして、アイドルだったかもしれないとても酔った30代の女性と日焼けした男性が現れ大声でシャンパンを音を立てて飲みながら、ひとつはさんだ隣のカウンター席で、大声で金儲けのしくみをいかに世間の大半の人がしらないかと話していた。

あの人は、その女がうざいとけっこう大きな声で言って、私は楽しみながら彼をたしなめてトイレへ立って席に戻るとあの人は奥のらくちんそうなソファー席に移っていた。

すぐにはそちらへすぐに行かずに、いったんもとの席に座ってタバコをもてあそび、ソファーの彼の方をみると最近買ったばかりの新しいワンセグで遊んでいてこちらを気にしないふりをしている。私は一呼吸を置いてから、自分の飲み物を手にして、あの人のいるソファーの隣へ座った。

タバコを吸おうかとしたが、灰皿がないことに気がいたので、灰皿をとってきてもらう。そして自分の箱は空だったので、タバコももらう。

そうこうするうちに、カウンターで騒いでいた女の声がパタリと聞こえなくなった。

トイレにでも行っているかと思っていたが、ずいぶんと長い。彼女の他の唯一の女としてトイレを見て来たらとあの人がけしかけるが、いや、それは店のマスターの仕事でしょ、それに頬笑みながらパンツを降ろして倒れている酔った年増女なんて頼まれても見たくない、などと話しているうちに、いつもよりも心なしか近くに座って私の腰に廻していた手が動き私の頭を彼の頭のほうへ引き寄せてキスをしようと唇を近づけて来た。

予想していなかったわけでも期待していなかったわけでもない状況だったが、とっさに私はほおをずらし唇ではなく頬で彼のキスを受け止めた。

そして、「何発情してるの?」ととてもとりつくしまのない冷たい言葉が私の口から発せられて身を少し離したあの人は、「なんとなく。」と悪びれもせず言った。

第一ラウンド引き分け?

これで私から手をだして非難されることはこれでなくなったわけだ。

一瞬の出来事だったけれど、つみかさねた友情が終わり、よりはっきりとした輪郭の
関係の発端が見え隠れした長くて短い夜だった。

その1時間後、なんとなく話すのも飲むのも面倒になった私は帰ると言い、朝日の中あの人はタクシーに乗り込む私を見送り私が運転手に行き先を告げ出るまで見送り手を降ってくれた。

ちなみにCカップのアイドルもどきは、よく見ると頭をがっくり反り返らして犬神家の人々の佐清みたいな形相で熟睡していた。あまりにも体が反りすぎて、少し低い位地にあったソファーからは死角となり見えなかったようだ。

5分後家につくと、携帯に次に会える日に付いてのメールがあった。

別れてまだ鼓動やぬくもりがのこるうちにもらうメールは、生もののように鮮度がよくて格別に嬉しい。別れてもお互いの余韻を楽しんでいるの暖かくていとおしく感じるからだ。

そしておやすみ、のひと言に私は優しくつつまれて、家で私を待っていた熟睡する男の隣で喜びがもれないように息を潜めて眠りについた。

翌朝に一句。
靴ずれに 赤く残りし 夜の跡


※FL(フライングレディー・スピリット・オブ・エクスタシー)という長い名前のバーは西麻布のエネオス近くのビルにあります。床がぴかぴかに磨かれて広々とした白いソファーの空間がしっとりとした夜にぴったり。束ねた長い髪が渋いマスターと話しつつカクテルやワインをゆったり楽しめます。おすすめは悪女な気分に一口でなれるカクテル、フレンチ125。シャンパンとブランデーの濃厚な味わいでエクスタシーへ飛び立ってください。
by dog06 | 2007-08-07 21:12
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